22年前のあの日、高校サッカーの聖地・国立競技場。
準決勝の舞台でひときわ輝きを放った男がいた。
181㎝の長身で長い手足を持ち、柔らかいボールタッチ、細かい足技、そして緩急自在のパスワークは、フィジカルで相手を圧倒するイメージでとらえられがちな鹿実サッカー部の中で、ひときわ異彩を放った。その男の名前は野見山秀樹。 1994年1月7日、国立競技場。3年ぶりの決勝進出を狙う鹿児島実業高校は、守護神・川口能活を擁する静岡県の清水市立商業高校と激突した。勝負は一進一退の攻防でPK戦までもつれ込み、惜しくも敗れた鹿実だったが、同試合の2得点を含む全5得点をマークして大会得点王に輝いたのが、鹿実のMF野見山だ。当時鹿実は城彰二、遠藤彰弘らスター選手を擁する強豪。そんなチームのベスト4までの道のりで野見山は、1回戦では相手を突き放す2点目のゴール、2回戦では2ー0の2点を決め、3回戦では決勝点の起点になるなど、エースの城以上に重要な役割を果たしたと言ってもいい。現在アラフォーで当時サッカーが好きだった男たちにとって、野見山はまさにヒーローのような存在。目を閉じれば、彼が清商ゴールにねじこんだ2発のヘッド弾がよみがえる。
「3年生の先輩は天才がずらり。 中でも前園さんは別格の存在」
野見山がサッカーと出合ったのは明和小学校3年生の時。始めてすぐサッカーの面白さにはまった彼は、普段の練習だけでは物足りず、週に一回、明和小学校の体育館で行われていたフットサルの練習にも大人に混じって参加するようになった。細かなボールタッチが要求される狭いコートでのプレーが、野見山の巧みな足技と素早い判断能力を培ったのだろう。当時そこでフットサルの指導も行っていた鹿実サッカー部総監督の松澤隆司先生の目に留まったのも、そんな野見山の洗練された高い技術だった。鹿実といえば、当時のサッカー少年なら誰もが憧れる名門校。そんな高校の総監督に「鹿実に来ないか」と誘われて、断る理由などあるはずもなかった。
鹿実サッカー部の最初の印象は、大人の体つきをした先輩ばかりで「いかつい軍隊のような集団だった」と笑う。部員はおよそ140人。同級生たちは、ほとんどが県内の中学では名の知れた選抜選手ばかりでお互いが顔見知り。一方の野見山は中学時代“無名”で選抜に入ったこともなく「みんな俺のことを知らなかった」。実際に選抜外の選手が松澤先生から直々に誘いを受けるのは異例だったという。仲の良かった同級生は城。「当時松澤先生の自宅寮には城がいた。家が近所だったこともあり、学校からの帰り道によく彼と一緒にチャリで坂道を下ったり温泉に入ったりしていた。そういう意味では彼とは馬が合ったのかもしれない。同じ電気科だったしね
当時の鹿実の3年生は、前園真聖や藤山竜仁、仁田尾博幸、遠藤拓哉ら“天才”と呼ばれた選手がそろう世代。中でも野見山は「やっぱり前園さんはすごかった。よく一対一のディフェンスの練習台をやらせてもらっていたけど、真剣にボールを奪いに行っても股抜きされたり、簡単に抜かれたり全然さわれなかった。スピード、フェイントのキレとか別格だった」と振り返る。上下関係は厳しかったが、それよりも野見山の脳裏からこびりついて離れないのが、ハードだった毎日の練習。当時の鹿実の戦術は、とにかく走ってプレッシャーをかけて相手からボールを奪取するというスタイル。そのため、スピードとスタミナをつけるトレーニングに多くの時間が割かれた。とりわけ思い出に残っているのが学校のテスト期間中に行われたダッシュだ。昼食後1時頃から4時頃まで、サッカーコートの端から端までひたすらインターバルでダッシュを行う。全員が規定のタイムをクリアしないと延々と続くという過酷なものだ。
当時は「練習中に水飲むべからず」という風潮があった時代。トイレに行くふりをして水道水で唇を湿らせたり、練習用のマーカーの中に水を仕込んだりしておくなど、あの手この手で先輩の目を盗んで喉の渇きを潤したのもいい思い出だ。グラウンドでの練習が終わった後は、原良ボウルにあったウエイトトレーニングジムで筋トレ。それが終わってから家に帰るとすでに23時を回っている毎日。「うまい連中が集まって、それだけハードな練習をしたら、他の高校が勝てるわけがない」と言われることもあったが、相手にそう思わせれば勝ち。野見山ら常勝鹿実サッカー部のメンバーの強いメンタルは絶対的な練習量で培われたといってもいい。
「城のおかげで得点王になれた。 清商の川口は“持ってる男”」
野見山はこれまで決してサッカーのエリートコースを歩んできたわけではない。2年生に進級するとヘルニアを発症し、手術をして半年以上を棒に振った。中学時代から注目されていた城や遠藤らとは違い、名前を忘れられたら終わり。そんな思いでリハビリにも懸命に取り組んだ。その努力は3年の夏頃から次第に身を結び、インターハイの県予選は控えに甘んじていた野見山は、本戦(全国大会)からレギュラーを勝ち取る。そして冬の高校選手権では、ついに国立競技場のピッチに立つ。 前年の全日本ユース選手権決勝でも同じ舞台を経験していたが、「その時とは比べ物にならないくらい国立の雰囲気は独特だった」と語る。同大会で主力として出場した野見山は得点王を獲得。エースだった城に比べると認知度が高かったとは言えないが、「城は当時から18歳以下の日本代表だったからね。彼にマークが付いてくれたおかげで点が取れた」と試合を分析。清商のゴールキーパー・川口能活から2得点したことについては「頭で得点すること自体あまりなかったから。あ、入っちゃった、みたいな。川口君とは何度か対戦する機会があったけどスター性があった。そしてやっぱり何かを持ってる男だった」。野見山が長いブランクを経ながらも全国で注目される選手に成長できたのは、松澤先生が「鹿実のラモス」と称するように、類まれなセンスの持ち主だったというほかない。
恵まれた体格と卓越した技術に甘んじることなく、向上心とチャレンジスピリッツを持ち続けた姿勢が、野見山秀樹を進化させていった。そして「もっとうまくなりたい」というシンプルかつ強い思いこそが、あの鹿実サッカーの黄金世代を支えた彼の原点だったのかもしれない。
「これからの日本サッカーは 鹿児島の少年たちが引っ張って」
高校を卒業後、九州産業大学に進学した野見山は「より厳しい環境に身を置きたい」とその1年後に大学を中退してガンバ大阪に入団するが、足首のケガが原因で3年後に退団。現在は京セラの社員として、サッカーボールをノートパソコンと電話に持ち替えてビジネスに奮闘する。最近、転勤先だった中国から6年ぶりに日本に帰ってきたばかりだが、その間で鹿児島のサッカーを取り巻く環境は大きく変わった。中国に行く前に母校の鹿実で5年間、外部コーチを勤めていた野見山は「鹿児島にプロサッカーチームができたことは本当にうれしい。そういう時に選手として地元でプレーできたら、なんてすごいことなんだろうと思う」と話し、さらに「今、鹿児島の少年サッカーは素晴らしい環境にある。だからもっとこれから鹿児島から良い選手がどんどん出てきて、日本のサッカーを鹿児島人が引っ張っていくぐらいになったらいいね」と後輩たちにエールを送る。
- 野見山秀樹(のみやまひでき)/1975年鹿児島市生まれ。小学校でサッカーを始めた。明和中学校を卒業後、鹿児島実業高校入学。3年時の高校選手権で城彰二、遠藤彰弘らとともにベスト4入りに貢献。5得点をマークして得点王に。卒業後は九州産業大学に進学し、九州大学リーグで活躍した。同大学を1年で中退してガンバ大阪に入団。現在は京セラ(京都府)に勤務。
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