4番、サード、 内之倉隆志

1990年、甲子園で噴火した鹿実「桜島打線」

歓喜の輪の中心には常にあの男がいた。

Photo by.Junichi Ueyama

(写真提供:日刊スポーツ新聞西日本)

 第72回全国高校野球選手権大会3回戦。6回を終わって1ー2と松山商業を追いかける展開の鹿児島実業高校は7回、一死一、二塁として、この男を迎えた。「4番、サード、内之倉」—このアナウンスが告げられるたびに、甲子園球場に詰めかけた満員の観衆から大歓声が送られた。内之倉はこのとき声援に応えた。0ー1のカウントのあと、真ん中低めの直球を左中間スタンドにたたき込んで試合をひっくり返し、見事ベスト8進出を決めた。準々決勝で西日本短大付に敗れはしたものの、鹿実は全国の舞台で大暴れして県民に感動を与えてくれた。

 

幼い頃から常に身近だった野球 高校はあえて規律が厳しい鹿実へ

昼は友達と草野球を楽しんだり、夜はジャイアンツ戦のナイター中継で、“青い稲妻”と呼ばれた松本匡史選手のプレーに目を輝かせたりと、野球漬けの毎日を過ごした幼少時代。しかも近所には県立鴨池野球場があった。「自然と野球をする環境が整っていた」という内之倉は、よく高校生の試合観戦に出かけて、各校の野球に対する方向性だとか雰囲気とかをつぶさに観察した。「鹿実の練習はハードだったけど、厳しい規律や礼儀作法があるということは中学時代に分かっていたので、そんなにキツいということはなかった」

 

早朝練習から始まり、授業を受けて16時過ぎから再び練習。ナイター照明を付けて21時くらいまで白球を追った。内之倉は1年生の春からレギュラーで4番を任された。同級生も現野球部監督の宮下正一を含む3人が1年生でベンチ入りという粒ぞろいの世代。「一緒に入学した同級生は、ボーイズリーグなどで名の知られた選手たちが各ポジションで集まった。それまで鹿実はしばらく甲子園に出場していなかったので、僕らの世代で絶対に久保監督を甲子園に連れて行きたいという思いがあった」

 

技術のあるメンバーが集まれば、若さゆえにおごりが生まれることもあるが、内之倉は鮮明に記憶している。 「3年生が県大会の一回戦で鶴丸高校に負けた。柵越しに泣いている先輩たちの姿を見て、夏の怖さというか、高校野球の怖さというものを初めて知った。その怖さを知っているからこそ、他のチームよりも、そういうものに負けないように、っていうのが僕らの合い言葉だった。そしてそれがあったからこそ、気を抜かずに高いモチベーションで試合ができたと思う」

 

内之倉世代が県内で敵なしを維持できたのは、この「相手よりも自分たちがまずしっかりやる」という精神のたまものだった。そして実際に甲子園に行ったことで、「久保監督が県大会では絶対に見せない、何も怒らないおおらかな表情にお目にかかれた。それだけでも行った価値がある」と笑う。

春夏ともにベスト8進出 甲子園で躍動した鹿実ナイン

甲子園でも4番でサードを務めた。春1本、夏3本の本塁打を放つなど“桜島打線”の中核を担ってチームをベスト8に導いた内之倉は、甲子園をこう振り返る。 「甲子園に立つと、みんな集中して、今までの思いを全部出し切っていたんじゃないかな。上園も初戦で完封したし。宮下に『お前が打つから俺の数年ぶりの先頭打者ホームランが(スポーツ新聞の)記事になってないじゃないか!』なんて言われたりして(笑)。それくらいみんな調子が良かった」

 

そして自身の打席については「甲子園って飲まれるか、楽しめるかのどちらかしかない。舞い上がって自分が何をやっているのか分からないまま試合が終わる人もいれば、めっちゃ楽しくてしょうがないっていう人もいる。僕は後者の方。応援があることで逆に集中できたっていうか。お客さんが多い方が、球場自体狭く見えた」と話す。  中学時代からオールジャパンで一緒にプレーしたチームメートと再会することもできた内之倉。このレベルの高い舞台で、特に印象に残っている投手については、こう言っている。 「いいピッチャーばかり(笑)。みんなコントロールがいいから、逆に打ちやすかった。僕は球種を絞って打つ方なんで。真ん中の打ちやすそうなボールが一番大変だった。『あ、どっちに打とう?』とか迷いが出てしまって。だから県大会の一回戦とか全然打てなかったのを記憶している(笑)。相手投手のことを考えるよりもより自分のことをやらないと。自分でタイミングを合わせないと、どうしようもないからね」

 

鹿実の試合になると、スタンドが関西圏に住むOBで埋め尽くされた。当時全校応援がなかった部員たちにとっては心強かったことだろう。逆に自分がOBとなった今、やはり母校の後輩たちの試合が気になるところだ。 「今でも高校野球はテレビでよく見る。自分も(ペナントレース中で)忙しい時期なので球場に足を運ぶことは出来ないけど、高校時代の陸上部の友人が、鹿実の戦況を逐一メールで送ってくれる。“今何回表”とか“誰がヒット打った”とか。一々調べなくてもオフィシャルの速報よりも早いので、助かっているかも(笑)」

野球人生最大の壁を乗り越え ブルペン捕手として再スタート

高校通算39本塁打を記録したスラッガーは、プロ野球ドラフト会議でも注目された。広島東洋カープ、近鉄バッファローズと競合の末、ドラフト2位で福岡ダイエーホークスに指名された。当時の心境について内之倉は、 「抽選されたところに行こうと決めていた。もし何かあったら、社会人の方にお世話になろうかな、とも思っていた。結果的に第一志望のホークスに指名してもらって望みはかなった」

 

しかし順風満帆のプロ生活、というわけではなかった。プロ通算本塁打2本。高校時代に甲子園を沸かせた打撃が、プロの舞台で再び輝くことはなかった。 「自分の思った通りにはいかなかった。プロの世界は厳しいからね。高校までずっとレベルが一番上のステージでやってきて、わがままな面もあったと思う。だけどプロでいろんな勉強をさせてもらって良かった。精神的にも強くなったし、どんなにキツいときも逃げないで立ち向かっていく勇気も身につけた。鹿実時代の経験も生きていると思う。ずっと野球がうまくいっていたら、今のような考え方もないだろう」

 

ホークス退団後は野球以外の選択肢もあった。実際に4〜5社から再就職の話もきていた。しかし内之倉には迷いがあった。近鉄のトライアウトを受けて再起を目指したが、結果は不合格。その同じ日に、台湾でのプレーの話も持ち上がったが、足首の古傷の悪化や、子供が生まれたばかりだったこともあり辞退。 「いろいろ考えて、さまざまな話を聞いたけど、自分はやっぱり野球が好きなんだと改めて思った。身の振り方を決断するまで2カ月くらい猶予があったので、しばらく今後のことを考えてみようと思っていたら、ホークスからブルペンキャッチャーの話をいただいて、そこで決断した」と当時を振り返る。

 

ブルペンキャッチャーを務めて15年目。チームに同行して、投手を気持ちよくマウンドに送り出すのが仕事だ。現在は1軍を担当しており、ブルペンでの投手のコンディションがゲームに直結する。内之倉は語る。 「盛り上げてあげたり、黙って捕ってあげたり、構え方を小さくしてあげたりと、各投手のクセやルーティンに合わせて捕球してあげることで、彼らのモチベーションをどれだけ高められるかが僕らの役割だと思っている」

趣味を楽しんでガス抜き 仕事を家庭に持ち込まない

持ち前の打撃センスとパワー、そしてスター性で甲子園の寵児になった18歳の内之倉。彼はそこからさまざまな壁にぶち当たりながら、45歳になった現在も野球の世界で活躍している。同世代の男性に何か言いたいことがあるかと聞いてみたら、内之倉はこう話してくれた。 「ガイズ世代は社会では中堅。それは僕も同じ立場。厳しいことばかり下に言ってもしょうがないからね。受け入れる、流すといったことも必要だし、いろんな趣味を持ってストレスを解消するのも大事。特に(プロ野球選手は)わがままなやつが多いから(笑)。昔みたいに、ガツンと言うのも、たまにはいいんだろうけど、あんまり言うと離れていく面もあるから。さじ加減が必要だね」

 

小学6年生の息子も現在ソフトボールをしている。その光景は、父親の姿を見て野球に興味を持ち始めた幼い頃の内之倉少年の姿に重なる。「中学校では硬式野球がやりたいって言い出しちゃって。『やるのはいいけど、今のような半端な状態だったらさせない』って言ったら、自分で練習をするようになった」と厳しいことを言葉では言いつつも、その息子の様子を見つめる視線は温かい。「仕事は絶対家庭に持ち込まない」というのは内之倉の信条だが、息子相手のブルペンキャッチャーは例外だ。

 

 

次回は恩師、鹿実野球部元監督の久保さんが登場だ!

 

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